明鏡止水平常心。。
心はまるで鏡のよう。。
私は、私の心に映ったものを観ています。
心がざわついてる時に、心に映る世界は、きっと『像が歪んでいる』事でしょう。。
肉の眼で見えている『もの』も、脳から心という『フィルター』を通して『印象』がつくられているのでしょう。。
人をどうのこうの評価したり論じたりしている事がありますが、『ただの印象を語っているのに過ぎない』と思います。
人を見るよりも、自分自身をよくよくみつめてあげる事の方が大切だと想うのです。
だいたい人の事をよく語る方ほど、自分自身を見ていない方が多い事でした。。
《 肉の目は外側に向けて付いている 》
だから人は外側ばかりに意識が向き続けるのかも知れません。。
内側への眼もちゃんと在るのにね。。
ほとんどの方は、この内側への眼を使わないし、発動させる事や、訓練もしないで一生涯を終えてゆく・・・
《 内側の眼とは 》
それは 『感じとる』 と言うことです。
感じとり、汲み取りながら、その正確さを誤解の無いように仕上げてゆく。その為に、心の学びと実践と訓練が、日頃の日常の生活であると思っています。
特別な訓練所や施設など本来はいらないのです。。
自分自身をしっかりと感じとって見つめる事に忙しくなると、他者のアレコレはいちいち気にならなくなりますよ。。
自分自身の心の学びの確認って自分以外の他の方を通じてでないと確認出来ない事なのです。
他者を通じて自分を知る事でもあります。
外側と内側をバランスよく保つ事も、心と体が健康に繋がる道です。
《 明鏡止水平常心 》
自分自身の気持ち(こころ)を波風一つ無い穏やかな水面の様にしている時のみ、『物事をそのまま観ることが出来る時』と思っています。
波風が一つ立つだけで、観ている像は歪みます。
歪んだ像を真に受けて、自分で勝手に印象を作り上げ、真実と思い込んでしまう。。
自分は殆どの事に於いて、誤解しているのだろうな。。
苛立っている時に人を観れば『化け物』に見えて、腹立ってる時に人を見れば『鬼に見えている』
そんな気持ちを持てたならば、強く人の事を『あーだこーだ』と語ることは殆ど無くなるでしょう。。
自分が明鏡止水平常心の境地に、1日の内、どれくらいの時間いられるのでしょう。。
いつかは24時間365日、そんな境地で生活できるようになりたいです。
せっかく年を重ねるのだから・・・
目指す目標であります。。
『感情が波風立っておちついていない時』に見えているものは、自分が勝手に像を歪めた世界でしょう。
つまり誤解です。
だからこそ、物事をそのまんま観ることを価値のある事だとするならば、『落ち着いたこころ』を求めて実践しないといけないのです。
生きていれば、豊かな感情を作りあげてゆきたいものです。
感情に乏しい人では無く、感情豊かな人になりたい。。
しかし、感情故に、『歪んだ像』を真に受けてしまう事の無いように、自分自身に言い聞かせている事が、『心に波風一つ立たない心境でのみ、その物事のそのままを観ることが出来る』という事です。
それ以外では、『大なり小なり誤解している』と捉えているのです。
心も体も落ち着いたこころで 体の声を感じ取る… 心に物事を映し観る…
その時に、体に必要な体操や調整や栄養や休養や運動が解るようになる。。
そして『心を 安全に 上手に伝える言葉が観えて やってくる』。。
後は自分が選んで使ってゆく。
主権者ですからね、だから人のせい、他のせいに出来ないのです。。
自分の心が穏やかに落ち着いている時に、物事をよく見つめている。
考えることはしないで、ただ見つめていると、その物事の印象が変化する事でしょう。
考えれば、自分で勝手に作り上げた『考え方』を使ってしまうので、結局は誤解してゆくのでしょう。。
そうであれば、自分から発する様々な事は『誤解に基づいているかもしれない』という気持ちであれば、他者に対してより謙虚になると思います。。
自分の心を落ち着かせて、心を明るく照らし、そこに映った像をそのまま観ている時間を作りましょう。。
体と心は密接に繋がっていますから、体と心を調える為の基本的な姿勢(心)です。。
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